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下坂一家の50年(2005年/下坂匡 著)




 私の子供・孫に残すために2005年書いたものです(ですから49年となっています)。2005年の正月の時、 みんなからの希望であり、ブラジル語に翻訳して残した時のものです。


1.移住のきっかけ、動機
下坂 匡(しもさか ただし)氏 昭和26年、戦後初めての「福島県畜産品評会」が相馬郡原ノ町(現在の原町市)で開催されました。その時「養豚の部」で私たちの豚が農林大臣賞を受賞します。私が中学生のときでした。当時、原ノ町へ行くということ (約70キロの移動)が、外国にでも行くことのように感じたのを覚えています。当時、北海道よりデリーマン誌という畜産専門誌を取り寄せており、海外の農業やその考え方などを知ることが出来ました。
 そのデリーマン誌より知ったデンマークの農家から畜産用のジャガイモのケネベックを取り寄せ、研究課題として 栽培したのが農業高校(福島県立磐城農業高校)1年生のときでした。気候条件が合わず、成績は良く ありませんでした。
 昭和28年平市(現在のいわき市平)にて農産物品評会が開かれ、私たちの農林大臣賞を受賞した豚が、 大黒屋デパート(当時市内唯一の大型百貨店)前に特別展示されました。そのとき日本初の国産耕運機メーリーテーラ機も展示されており、たくさんの注目を浴びていました。デリーマン誌を愛読していた私は、アメリカ、 デンマークの農業と日本の農業の差があまりに大きく、これから日本で農業を続けていくことに疑問を持つようになりました。私の隣村は、渡米して稲作で大成功を収めた国府田さん(ライスキングと呼ばれている)の出身地です。彼の活躍は、子供の頃から知っておりました。そんな時、渡米実習生の体験談を聞く機会があり、海外の農業にさらに大きな興味を 持つようになりました。
 父東五郎も一代での開拓者です。一代で好間村でも有数の篤農家と呼ばれるようになりました。この頃から、 父の跡を継ぐ農業ではなく、自分も一人の開拓者として新しい農業をしたいという気持ちが強くなっていきました。昔、父も外国にあこがれたことがあったそうで、私が海外で農業をやりたいという話を率直に、まじめに受け止めてくれました。
 父はすぐに、福島県庁にブラジル移民の話を聞きに行き、移住の話が具体的に動き出しました。私が話をしてからわずか5ヵ月後には、下坂東五郎一家は、ブラジル移民船「アメリカ丸」に乗っておりました。50数日の旅の始まりでした。




2.運命を大きく変えた船旅
 1955年12月30日、「アメリカ丸」は神戸港を出港しました。夜になると遠くの明かりが見えました。皆甲板に出ていつまでもその明かりを見つめていました。翌日の夕方だったと思います。誰かが「富士山が見える」と叫びました。皆甲板に出ました。船上には薄暗いのに夕日を浴びた美しい富士山がくっきりと見えました。
 知らず知らず独りでに涙が溢れました。これが最後の日本の姿になることを、皆実感したのでしょう。真っ暗になるまで、富士山が見えなくなるまで皆甲板で泣いていました。18才の冬でした。翌日から毎日が海と空だけの日々でした。1日また1日と日本から離れていく現実に、もう再び日本に帰ることは無いという気持ちが強くなりました。
 50数日の船旅の間、時間だけはたっぷりとありました。そんな中で私はこの機会に自分の生き方を考えてみようと思うようになりました。
 今までのことを振り返って、私は頭もそれほど良くないし、人前で話すのも苦手、かなり内気な性格だったと思います。これから生まれ変わるんだと自分自身に言い聞かせました。この船上での日々が、今後の私に非常に大きな役割を果たしたと思います。
 サントス港には1956年2月17日に入港。ついにブラジルへの第一歩を踏み出しました。私たちを迎えてくれたのは、愛知県出身の一家で、日系人では有数のコーヒーの大農場を経営している方でした。農場を3つ持っており、私たちが配耕された農場には日本人の家族が15家族と、ブラジル人の家族が30家族働いており、電気も通じておりました。
 私たち家族は早く現地になれるため、また言葉をなるべく早く覚えるため、あえてブラジル人家族の中に入りました。日本人では初めてだったようです。
ブラジル・下坂農場



3.コロノ生活
関連地図 ブラジルに上陸してからは、見るもの聞くものすべて初めてのことばかりで、まるで大きな赤ん坊のようでした。私たちはすぐ学校に通いました。コロノ生活(農村労働者最低の生活)契約期間は9月1日より翌年の8月30日までで、2月に入った私たちは9月まで普通の労働者と同じ条件で働きました。9月より契約者として1年間勤めます。この1年7ヶ月でコーヒー、落花生、トウモロコシの生産、陸稲の蒔き時から収穫まで体験するわけです。
 成鶏を30羽、豚のつがいも買い、これからの農業に必要な最低限の知識を学びました。契約期間が切れた時、移住者の大部分はサンパウロの近郊農業に移っていきました。私たちは奥地の原生林ジャレスに入植することになります。ジューリョメマキータよりジャレスの町まで500km離れております。当地はサンパウロ州で唯一残された原生林と言われたところで、1957年9月当時に開拓最前線と言われた町も、アスファルトの道路もない土と埃の出来たばかりの町でした。その時、さらに20km離れた土地に入植するとは夢にも思っていませんでした。



4.独立、原生林との戦い
コーヒーの花  全くの原生林を開拓するのです。まず道路を作ります。道路になるところには、目印が付いています。
私たちの購入した土地は4区画目(1区画100メートル四方)でしたので、400メートル自分たちで造らなければなりませんでした。初めて独立したこの土地は24ヘクタール。21才の時でした。入植した翌日、原生林を切り開くために現地人を5人雇い入れました。バスターミナルに行くと現地の人たちが、仕事を探して集まっています。そこで労働日数、給料等を相談して雇うわけです。その土地が開ければどんどん人が集まってきました。
 私と司(次男16才)も一緒に作業をしました。木を切り倒すわけですが、彼らの半分もできません。また、井戸を掘り、家を建てるのもすべて自分たちでやりました。21才の時に立てたこの家は、7メートル×10メートルの広さで、3年くらい住むことができました。井戸は掘った時には水は出ずに、3年くらいしてから水が湧き出しました。独立してからのこのような作業は、すべて危険と隣り合わせでしたので自然と言葉も荒くなりました。
 原生林を切り倒した20〜30日後、今度は5〜10ヘクタール単位で火を入れます。10メートルの火柱をあげて燃える様は想像を絶するもので、初めて体験した私はその炎を見て、日本にいる時の何倍もの生きる強さを感じました。数日後に雨が上がれば、陸稲の穂籾を蒔きます。1ヘクタールに40kg土地いっぱいに蒔きます。初めての年に籾で730俵の収穫がありました。稲は日中に刈り取り、暑い日中を避け夜、台に叩きつけて籾にします。(一晩で20〜30俵仕上がります)この作業も ブラジル人を雇って行いました。初年度の収穫でトラック数台分になりましたので、その喜びは格別でした。
 父母はその喜びを前のパトロンに報告に行きました。前のパトロンからは「そんなことで喜んでいないでもっと夢を大きく持ちなさい。あなたたち家族ならこれから何千俵もの収穫が出来るはずだから」という励ましの言葉を頂きました。
 その1年後、コーヒー栽培を始めました。数年で1万2000本のコーヒー園になりました。面積にして8ヘクタールです。当時は植え付けから収穫まですべて手作業で行いました。大コーヒー農場になると、数十家族が農園内に住むことになります。当時の私には大コーヒー農場は夢のまた夢でした。
 当時ジャレス地方は、原生林が毎晩焼かれるために日蝕のような日が何日も続きました。開拓当時はこんなになるとは想像もしていませんでした。原生林を開拓した後は、何十年も無肥料で作物が出来ます。
 数年後、ジャレス地方に南伯農業協同組合(スールブラジル組合)が入ります。それが独立して単協ジャレススールブラジルになります。父東五郎は、最後の理事長として16年間勤めます。組合員数370名50パーセントが日系人です。
 組合の出荷物は、コーヒー、米、野菜類、ブドウ、鶏卵などの様々で、ジャレススールブラジルは、日系大集団となっていきます。ブラジル一の米処として精米所が40数ヶ所(うち日系人のものが14ヶ所)にのぼり、当時始まった米祭は、現在も続いております。ジャレス入植10年目に父東五郎は、ジョゼポニパショ賞(開拓功労賞)を受賞し、渡伯15年目にして両親は日本訪問の夢が かなえられました。




5.自分への挑戦
 私は、せっかくブラジルまで来たのだから自分に出来そうなことは何でもやってやろうと思いました。
1962年手始めにカップテスター(コーヒー鑑定士)の資格を受験し運良く合格しました。その後南伯組合に1年7ヶ月勤務しました。サラリーマン生活も体験したわけです。いつでも家に戻れるよう、自分の月給でイタリア系3世の家族を雇い入れました。そんな時組合に、ジャレスコーヒーを400俵大阪へ送るという仕事が入りました。この時から「何時の日か、自分で作ったコーヒーを日本へ送りたい」という夢を見るようになります。
 この時期には、途方も無い夢だったと思います。このころの生産量は、私の家族全員ともう1日本人の家族、それにブラジル人2家族の計4家族で精選コーヒー300俵にも満たない時期でした。当時の経営内容は、コーヒーに陸稲、綿、落花生、トウモロコシ、その他に養鶏、肉牛の飼育で面積にして130ヘクタール、この地方では中級の農家でした。
 数年後にアボガドを2000本8ヘクタール栽培しました。私を含め弟たち、四男までこのジャレスで結婚、そして独立しました。
下坂農場 若いコーヒーの木



6.セラード農業への挑戦
 セラードとは、ブラジル語で未開の土地、不毛の土地という意味で、非常に強い酸性土壌のため、当時は農地として全く利用されていませんでした。
 日本側のセラード開発構想は、1968年アメリカの食料輸出制限に端を発します。1971年経団連の土光会長がミナス州政府の招きで、パラナイーバ川上流にセラード地帯を視察します。(それを記念して出来た大豆の新種ドコウ種は、現在も栽培されています)1973年ミナス州政府がパイロット計画を発表、食料基地構想が具体化します。州政府の入植プロジェクト指導の下、日系農業者、日系組合が参加します。
 1974年入植が開始されますが、個人資本率が5〜10パーセントという、どちらかというと他人の資本で勝負するという計画が気に入らず、私たちの所属するスールブラジルは参加しませんでした。このプロジェクトにより、サンゴタルドの町に日系の11家族が入植しました。
 スールブラジルは、サンゴタルドから50km離れたカルモ・ド・パラナイーバに入植、土地代は100パーセント自己負担でした。 私がカルモに入植してから5年後に日伯のセラード開発事業が本格的に始まったことになります。37才の時、このセラードと出会い後この土地に全精力を捧げることになるわけです。
 ジャレスの経営は安定しており、私の個人資産は肉牛60頭に預金が1万ドルありました。この資本金を元に、ジャレスとカルモの2つの農場を掛け持ちするようになりました。私がジャレスからカルモまで通い始めた当初は、アラシャの町からカルモの町まで約190km、途中1台の車ともすれ違わなかったことが何度もありました。
 1974年カルモに143ヘクタールの土地を購入、翌年銀行よりその土地代の5倍の融資を受けます。渡伯以来、18年かけて1万2千本のコーヒーを栽培していたものが、この敏から一挙に12万本のコーヒー栽培が始まりました。週の半分はカルモ、半分は ジャレスという生活が1年6ヶ月続きました。その時の私の車は、1年間で7万4千kmも走っておりました。 カルモの農場が出来上がる前に事故死してしまうのではないかと思うほど、どぎつい生活でした。でも、一番充実していたのも この頃かもしれません。そんな私の生活を見て弟たちも応援してくれます。
 みんな独立しておりましたが、また全員でやろうということになりました。下坂兄弟農牧商合資会社の設立です。個人資産は全部新会社へ投入して新たな一歩を踏み出しました。この年(1975年)の7月ブラジル全土を大霜が襲い、ジャレスの農場が全滅する被害を受けます。この時、カルモのコーヒーは僅かながら生産の見通しが立ち始めており、これを契機にセラード、カルモの農業に全精力を傾けることになります。今にして思えば、この時カルモの農業を手がけていなければ、 ジャレスの農場の全滅という大打撃に、今後のことは全くわからなくなっていたと思います。
下坂農場にて 下坂 匡(しもさか ただし)氏



7.大型農業の出現
下坂農場の大型収穫機 セラードでの農業の見通しも立ったことで、私たちはジャレスの農場を処分し、完全にセラード(カルモ)に本拠地を移しました。もちろん弟たちも全員参加することになり、ジャレスより生鶏5000羽の移動も行いました。事業は順調に拡大し、一時は共営農場を 含むと2600ヘクタールの面積にまでなりました。
 耕作面積1800ヘクタール、肉牛1800頭、養鶏30000羽、養豚200頭、面積の内訳は、コーヒー60%、大豆・トウモロコシ・ フェジョン豆等の雑作が20%、畜産関係で20%です。その他に運送業、農業機械販売店(カルマーキ)、肥料販売代理店(シモアグロ)に 着手しました。商業部門の支配人は、すべてブラジル人とし、共営者として僅かながらでも株主になってもらいました。
 期間を5年とし、70〜80%の資本を投資しました。5年という期間は軌道に乗るか、はたまた撤退するかにちょうど良い期間と思われ、 また、軌道に乗ったものが高値で転売できるちょうど良い時期でした。 サラリーマンではなく、共営者になったことで、彼らもやる気を持って非常に良く働いてくれました。
 セラード農業が注目され始めたところで、すべてが順調に回ったと思います。農業のほうは、15年間個人名義を作らず経営しました。その後、この農場で出た利益を分配する形で、兄弟それぞれ独立採算制をとっていくことになります。本部のパライゾ農場は今日も、兄弟共営という形をとっております。
 セラード入植者がすべて成功したかというとそうではありません。大半の入植者は、今までの小農から常に生産性が求められる大規模農業に切り替えが出来ず、失敗してしまいました。それでもこの30年で、あの不毛の地と呼ばれたセラード地帯が、一大コーヒー生産地となり、また大豆においてはアメリカ中西部の天候不順と相まって、ブラジルが世界一の輸出国になったわけですが、セラード地帯は、その10%以上を生産するに至っております。




8.これからの問題
 今、世界的規模で異常気象が起こっていますが、このセラード地帯とて例外ではありません。パラナ川は、私たちの住んでいるところが水源で、ここからイグアスの滝を経由してアルゼンチンで海に流れ込むのですが、この川の水量がこの30年で半分になり(乾期には対岸まで歩いて渡れる)また、父東五郎が生前釣りを楽しんだ農場内の 沼(3〜4ヘクタールあった)が完全に干上がり、今は作物が植えられております。
 年間降水量が200ミリも減少しており、ここ数年でずいぶん灌漑設備を使った農業に変わってきております。地球の72%を占める水もほとんどが塩水で、農業用に利用できるのは僅か0.02%にすぎないそうです。10年前にアメリカの農業を視察した時、灌漑農業の話を数時間聞きました。その時はまるで他人事だったのですが、今まさに現実問題になっております。



9.振り返ってみれば
 今年は移住50年、セラード入植32年になります。時代は一世の我々から、四世の孫たちへと移り変わろうとしています。経営も農業部門と商業部門にそれぞれ独立し、奮闘努力しております。50年前、小さな種だった私たちも、半世紀の月日をかけ、 芽を出し大地に根を張り、枝葉を茂らせることができました。
 非常に長い戦いでしたが、たくさんのブラジル人、日系人に助けられて今日まで何事も無く、仕事人生を送ることが出来ました。 このブラジルの地で、精一杯生きて来れたことに感謝し、また、喜びと感動を与えてくれたこの大地に心からありがとうと叫びたい気持ちです。
 ブラジルの国、人々に心から感謝いたします。



◆下坂農場の歴史◆=ブラジルのコーヒー事情と下坂農場の歩み)
1937年 6月 下坂東五郎の5人の兄弟の長男として下坂農場主下坂匡生まれる
1955年12月 下坂匡、福島県立磐城農業高校繰上げ卒業。家族全員でブラジルに渡る
1956年 2月、ブラジルサントス入港後、サンパウロ州カフェランジャのコーヒー園に入植。
ボルボン、スマトラ、カツラ種の日系の農場で全て手作業・無肥料・無農薬栽培。一人の受け持ち2ha。コーヒーが3500〜4000本前後の面積。
1957年 サンパウロ州ジャレス地方に入植。自作農第一歩始まる
生産性の高い新品種、ムンドノーボ種・カレウアイ種導入
1958年9月 サンパウロ州ジャレスにて25ヘクタールの土地を購入し自営農として独立
1962年4月 下坂匡、カップテスターの資格取得後、農業組合に勤務
1965年1月 妻、清美と結婚
1970年 ブラジル全土に(1968年)アフリカで流行したサビ病ヘールゼンが発生 それにより、農薬が使われるようになる(私どももそれまで無肥料無農薬が続く)
1972年5月 商業部門設立サンパウロ州ジュンジャエイに店舗開設
11月 下坂匡、ブラジルに帰化
1974年 6月、セラード地帯カルモ・ド・パラナイーバに143ヘクタールの土地を購入。セラード農業開始。機械に合わせた植付方法により、1ha3,000〜3,500本
ブラジル全土に大霜ある 60%のコーヒーに被害ありジャレスのコーヒー園17年間築き上げた農場全滅(1年前セラードに植えたコーヒー残る)
1975年1月 下坂兄弟農牧商業合資会社設立
7月 ジャレスの農場、大霜のため全滅
1976年8月 サンパウロ州ジャーレスの土地・建物を売却し、カルモ・ド・パラナイーバ農場設立に全力を投ずる
1977年3月 繁田武之(『カルモシモサカ』日本総輸入元ブラウンチップ代表)研修生として下坂農場を訪れる
1978年8月 カルモ・ド・パラナイーバに運送部門設立
1980年 1980 年前後(1975、1979、1981年)次々にコーヒー地帯に霜ありブラジル全土の30〜60%被害を受ける。この被害をきっかけに、パチナ州の土地はコーヒーから一般作物に移行。またセラード地帯は霜の被害が無く、高値で取引ができるため、コーヒー生産者が本格的に入植を始める
1981年11月 ブラジル農林省より優秀農場に選ばれる
1983年6月 コーヒー収穫機等大型機械導入、大規模機械農業開始
8月 父・東五郎、カルモ・ド・パラナイーバ市より名誉市民を受ける
1984年10月 コーヒー収穫機の発明者、西村俊治ジャクト農機会社長とアメリカ農業を視察
1985年 セラード地帯の大規模コーヒー栽培が行われるようになったことにより、コーヒー収穫機の開発製造が開始され、1台10万US$以上するため、一部大規模農場のみが導入でき、ますます大型化されていく
1987年1月 ブラジル、サルネイ大統領及び農林大臣が農場を見学に訪れる
6月 関根匡(現『カルモシモサカ』株式会社BC代表)研修生として農場を訪れる
1988年1月 シモ・アグロ農業会社設立
5月 第二次セラード開発日伯合弁事業に参加
7月 全国拓殖連合会の招きにより、全国の高校で講演する
10月 カルモ市のパライゾ農場で収穫された良質コーヒー(スクリーン18,19)を「カルモ・シモサカ」と命名。日本への直売成立、日本へ輸出を始める
1989年 霜後の植付面積が多くなり、生産に入るとブラジル全土で生産過剰となり、1991〜1993年の3年間、コーヒー1俵50〜60US$の安値となる。10年後、同じように低迷が続くそれにより、セラード地帯でコーヒー農家倒産続出カルモ市でも、日系農家半分となる
1989年8月 第二回アメリカ農業視察
1990年3月 パラグアイ、アルゼンチン農業視察
1992年5月 カルモ・ド・パラナイーバ市長、副市長とともに農業視察のため訪日。「カルモシモサカ」東北、北海道地区販売代理店、株式会社BCの設立式典に出席(福島県いわき市)
6月 キーコーヒーの大木会長の招きでインドネシア、スラウェシ島トラジャ地方のコーヒー生産地を視察
12月 味本位のコーヒーの品種、ボルボン種を収穫、日本へ初出荷
1993年12月 イリカフェ社主催コーヒー・コンテストにて、日系人で初めて最優秀コーヒー生産者10名に選ばれ、最終選考で7位入選
1994年8月 セラード地帯の優秀生産者に選ばれる
10月 ハワイのコナコーヒーを視察。山梨県韮崎市市制40周年祭に招かれ、カルモ・ド・パラナイーバ副市長とともに代表として出席、日本のコーヒー市場視察。1994年の霜の被害及び今後の相場展開など、生産者の見地から自家焙煎店の方々に講演(東京都杉並区)
1995年 セラード地帯に霜があり、被害は最小限であり、植付10年以上の全盛期を過ぎるコーヒーに様々な病害虫が発生するようになり、専門家による指導方法に変わり、企業化されたコーヒー農家に転換していく。家族単位の個人コーヒー生産者は少なくなる
1995年9月 ジャマイカコーヒーを視察
1996年4月 日本東北、北海道、自家焙煎店をまわり、3500km走行
5月 農村リーダー研修で板柳(青森県)観光農場を視察寒河江(山形県)、チェリー農場視察、甘楽(群馬県)甘楽ふるさと館視察
1996年9月 パラグアイ、大豆栽培状況視察
1997年9月 アメリカ農業視察(第三回)
1998年4月 恩師山本先生、学友一同11名、42年目にして初めてブラジルの当農場訪問
9月 日本農業水産情報アグリネット社『ブラジルを耕す』という表題でテレビ取材を受ける
1999年1月 2日、父・東五郎逝去(89歳)
4月 日本より自家焙煎業者17名当農場視察)
6月 ペルーコーヒー生産地視察。ペルー移住100年祭に参加
9月 中国の遼寧省高げん公欽れい南出口よりコーヒー視察団受ける
2000年 コーヒーも適地適作と言われていましたが、最近では乾燥地帯に灌漑施設を持った栽培に移行しつつありますいろいろ問題はありますが、これからも大きく変わっていくように思います
2000年10月 日本自家焙煎店全国74店68,000km回る。岡山県笠岡市ブルーマウンテン20周年記念講演。 福岡市九州コーヒー文化学会講演。
2001年10月 セラードコーヒー、アーソーカフェ(コーヒー生産者組合)市発展(コーヒーの町として)功績により感謝状を受ける
2002年8月 事業団よりブラジル在住専門家として、パラグアイの日系集団地5ヶ所営農指導する
10月 中国上海に新しく開店したカフェドカルモ店視察。訪日し、新潟県はじめ13県の自家焙煎店回る。福岡市九州コーヒー文化学会にて講演する。
2003年1月 日系農協活性化セミナー。パラグアイ・ボリビア・アルゼンチン・ブラジル組合代表27名実践的農業について講義する。
4月 県連合会ふるさと巡り76名の当農場訪問を受ける
8月 サンパウロ農業婦人部31名の当農場訪問を受ける。小野修一山形県韮崎市長、
11月 ヘレンよりカスタニャール、トメアス農協文協関係者3名の訪問を受ける
2004年2月 東京ブランチップ社長、繁田武之氏、サンパウロ州旧コーヒー地帯現状視察案内する
8月 全拓連、JTK馬場所長、芳賀氏共に、セラード開発事業30年後現状視察(ブラジリヤ)
9月 ブラジル健康食素林研究セミナー参加)
2005年4月 今回10回目の訪日となる鹿児島、福岡、岐阜、岡山、愛知、静岡、長野、福島、秋田、宮城、北海道、自家焙煎店回る
5月 母倒れる(4/26)危篤とのこと網走より急遽帰国
9月 カルモ市より、名誉市民権を受ける





・コーヒー園の除草は、年に数回刈り取り方法で収穫機に入りますと、雨もありません。除草剤も使わず、雨期の雑草は有機質に変わります。
 私の時代のコーヒー園に草などあったら大変なこと。いつもきれいに雑草などありませんでした。そのときは有機質の分解早く、毎年地力が低下していきました。今はその反対で、毎年有機質が上がっています。

・この数年、カルモ地方の大農場は、ウオッシュドが入り、自然乾燥法のナチュラルは少なくなっております。雨量多い地方は仕方が無いと思うが、乾期と雨期に別れて自然条件が恵まれている所で、価格差あるためウオッシュドが人気あります。人間の嗜好も変わっていくのですかね。

・完熟コーヒー(カンジュクコーヒー)
 カルモも、樹についている乾燥した状態で収穫されます。そのコーヒー園は来年は収穫0であります。今年の花は、3回くらいと思います。第一回目の花は、 私どもはBoia(ボイヤ→初め1回目の花の実のこと)去年までは変わりありませんでしたから、別にしておりませんでした。今年は別にしております。(数年前、3年間別にしていました)比較して下さい。


この30年間コーヒー園に堆肥が投入された量、約34000トン前後になります。
これはPARAISO農場の自慢にできることです。
鶏糞・・・30,000羽(年間1羽鶏糞1キロ前後)
30年間・・・10,000トン
コーヒー殻・・・30年間(年間平均7,000俵)14,000トン
カピン、カメロン(牧草1ha70トン)、バグソー(サトウキビから)・・・4,000トン前後
牛糞・・・13年間・・・7,000トン前後




思いのまま

 省みますと、この50年は永い永い月日でありました。と、同時に一瞬の夢のようでもありました。 当時18歳になったばかりの私が、新天地ブラジルに移住、その中で忘れることにできないことは、 不毛地帯セラード入植13年目(1987年)突然ブラジル大統領が、当農場を訪問するとの知らせであります。
 まさかと思いました。ブラジリヤ政府からカルモ市役所に、「Tadashi Shimosakaという人間の問い合わせがあった」とのことでした。
 当時、父東五郎が健在であり、大変喜んでくれました。大統領自ら父に握手を求め、大統領から 日本語で「ブラジルのためにありがとう」と激励されたことは、父への大プレゼントでした。私及び、家族一同の誇りでもあり励みとするところであります。
 セラード入植32年は、ブラジルの生活は苦楽苦難の中でありました。私の人生で一番希望に燃えていたときでもあります。

 この50年を振り返ると、2年後は日本人が移住して100年になります。私のような日本人は少なく、今では典型的な古い移民タイプであり、 どんぶり勘定で物事を進め、自ら意思を決して曲げずやり遂げてきました。そんな私を支えてくれた私の家族、両親に感謝しております。
 今日では、私の人生の目的は達成したかに思います。若い頃は新しい夢があり、誰よりも好奇心旺盛な自分だと思います。

 これからの人生は、若いときのようにはいかなくても、私なりにこの大地とともに生きて行きたいと思います。




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